読みどころは登場人物の｢抱えているもの｣
「春の蝶」（道尾秀介）
（「日本文学100年の名作第10巻」）
新潮文庫
「春の蝶」（道尾秀介）
（「光媒の花」）集英社文庫
｢わたし｣の部屋の
右隣に住む老人･牧川は
一人暮らしだと
思っていたのだが、いつからか
娘と孫娘が同居していた。
4歳になる孫娘･由希は
耳が聞こえなかった。
そんな牧川の部屋に泥棒が入り、
1300万円もの現金が
盗まれたという…。
日本文学100年の名作第10巻、
現代小説ですから
純文学というよりも大衆文学、
さらにいえばミステリの部類も
増えてきます。
本作品はライト･ミステリに
分類されそうですが、
純文学としての要素も
十分に兼ね備えています。
本作品に現れる｢事件｣は
牧川の貯めていた現金の盗難。
それもわずかに外出していた時間に
ベランダから侵入したとなると、
謎解きの要素は薄いのです。
読みどころは登場人物の
｢抱えているもの｣ということに
なります。
【主要登場人物】
｢わたし｣幸(さち)
…語り手。工場に勤めながら
ファミレスのアルバイトをしている。
牧川
…｢わたし｣の右隣の部屋の住人。
娘･孫娘が転がり込んできた。
由希
…牧川の孫娘。
耳が聞こえない(後天的)。
本作品の味わいどころ①
傷を負っている｢わたし｣
語り手の｢わたし｣ですが、
経済的にはかなり厳しいのでしょう。
アパートは四畳六畳の2K。
工場勤務の給料だけでは生活できず、
退勤後はファミレスでアルバイト。
時間的にも金銭的にも
生活には余裕がなさそうです。
さらには自身の名前｢幸｣について、
「もともと手首を上と下から
手枷で挟み込んだことを表す
象形文字だった」
「それが後に、刑罰から
逃れたという意味になって、
やがては幸運そのものを
指すようになった」と語ります。
不幸な子ども時代を送ったで
あろうことが示されます。
本作品の味わいどころ②
大人に追い詰められる子ども
由希の耳が聞こえなくなったのは、
離婚した両親が原因であることが
語られます。
母親に問い詰められ、
父親が電話で答えていた内容を
話してしまったことが、
離婚の原因と捉えた由希は、
自らの聴覚を
閉じてしまっていたのです。
大人に追い詰められた幼児の姿が
痛々しいまでに描出されています。
本作品の味わいどころ③
回復する家族関係の予感
筋書きは終始暗い影を引きずりながら
進行していきます。
しかし｢わたし｣との関わりから開いた
由希の耳と心は、
盗難事件の真相をつかんでいました。
牧川と娘、娘と由希、その親子関係が
修復に向かうであろうことを
予感させ、物語は幕を下ろします。
そしてその結末は、
｢わたし｣も現在の生活に
不幸を感じていないことを
示しているのです。
短篇小説は、
単に分量的に短いのではありません。
長いドラマの一断片を
取り出すことにより、
その前後までを
読み手に提示していかなければ
ならないのです。
その意味で、本作品は
完成度の高い｢短篇｣であり、
ライトミステリなどと
片付けてはいけない作品であると
いえます。ぜひご一読を。
※本作品は
連作短篇集｢光媒の花｣の第4編に
相当しています。
その｢前後｣にあたる部分が、
他の短篇の中で
描かれているようです。
そちらも読んでみたいと思います。
※「日本文学100年の名作第10巻」
収録作品一覧
2004｜バタフライ和文タイプ事務所
小川洋子
2004｜アンボス･ムンドス 桐野夏生
2005｜風来温泉 吉田修一
2005｜朝顔 伊集院静
2006｜かたつむり注意報 恩田陸
2006｜冬の一等星 三浦しをん
2007｜くまちゃん 角田光代
2007｜宵山姉妹 森見登美彦
2008｜てのひら 木内昇
2008｜春の蝶 道尾秀介
2009｜海へ 桜木紫乃
2009｜トモスイ 髙樹のぶ子
2009｜〆 山白朝子
2009｜仁志野町の泥棒 辻村深月
2013｜ルックスライク 伊坂幸太郎
2013｜神と増田喜十郎 絲山秋子
（2022.4.21）
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